「できる」ってどういうこと?

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「できる」ってどういうこと?

 こどものつむぎの心理士前岡です。

【「できる」の魔力】
 子ども達は,たくさんの「できる」に囲まれています。テストで点数を取ることができる,宿題を提出することができる,運動会に参加することができる・・・。私も療育では,「ひらがなが書けてほしいな」「数字を覚えてほしいな」と,できることを求めています。できることが増えていくことは,子どもにとっても嬉しくなることですし,周りの人にとってもその子の成長を感じて喜べることです。また社会で生きていくために必要なことだろうと思います。そうして「あれもできてほしい」「これもできてほしい」と思えば思うほど,「できる」の絶対的な大切さに目を奪われて,他の大切なことを見落としているのではないかと違和感を抱く自分もいます。

 

 

【「できない」=「劣っている」?】
 違和感の1つ目は,できない子に対して,低い価値づけをすることになってしまうということです。「できる」に価値を置く世界では,できる子が認められ,できない子は認められず,もっとできる子に近づくように言われます。特にできることが少なく,できないことが多くなりやすい障害のある子ども達は,周りよりも低い存在として価値づけられてしまいます(そもそも何を「できる」として,何を「できない」とするのかということも,社会の一員である私達が決めているものなのですが…)。またよく言われる考え方の中に,「子どものできないことだけでなく,できることを見ればいい!」というものがあります。確かにこれは,できることを長所として活かし,子どもの可能性を広げていくことになるので大切です。しかしできることが優れていて,できないことが劣っているという評価軸を持っていることには変わりない気がします。

 

【「未来」が見えなくする「今」】
 違和感の2つ目は,「今」の姿が,「未来」の姿ほど注目されないということです。「できる」ことが増えるのを望むとき,「こうなってほしい」という「未来」の子どもに期待するので,「今」は「未来」という望ましい状態への過程と捉えられてしまいます。すると「今」の子どもは,「未来」の子どもよりも望ましくないということになります。このように書くと,「いやいや,今の子どもも大切に思っているよ~!」という意見が出てくるかもしれません。しかしここでの話は,実際に子どもを大切に思っているかというよりは,「「できる」が良い!」という1つの基準で「今」と「未来」を比較した時に,どうしても「今」は「未来」の望ましさには及ばないということです。
 繰り返しになりますが,「できる」を望むことは悪いことではないと思います。ただ「できる」に過信するあまり,他の子どもや未来の子どもと比べてしまい,今の目の前の子どもしかない魅力を見逃してしまう危険性があるようにも思います。

【子どもが「手ごたえ」を感じる】
 どうしたら「できる」の良さを活かしつつも,「できる」を過度に用いることなく,ほどよくつきあっていけるでしょうか。そのヒントは,今回も子どもがくれました。
 つむぎに通う年長の男の子のエピソードを紹介します。運動の時間。私はその子とキャッチボールをしていました。最初は近い距離でボールを投げ合っていました。ボールはリズムよく行ったり来たり。すると「じゃあ次レベル2!」そう言ってその子は少し遠くから投げます。これもお互いにキャッチできたので,「じゃあ次レベル3!」と言ってさらに遠くから投げます。しかしその子はボールを落としてしまいました。私は「ちょっと遠いかな。もう少し近くしようかな。」と思っていると,その子は笑って一言。「おしい!じゃあ次レベル4ね!」。えええ!キャッチできてないけどレベル上げるの(笑)!?しかも何でそんな楽しそうなん!?さらにさらに遠くでやってみますが,ボールを何度も落としてしまいます。するとその子が「じゃあ次レベル5!」と言って,さらにさらにさらに遠くに行ってしまいます。彼は笑顔でボールを投げ,笑顔でボールを落とします。
 「キャッチできる距離で遊ぶでしょ!」と私なんかは思いますが,彼はそうはしませんでした。彼にとってキャッチができたかできなかったかは,あまり問題ではないのです。ここで大切なのは,彼が「手ごたえをつかんだ」ということなんだと思います。ボールでのやり取りを楽しいと感じたり,もっと遠くから投げたらどうなるだろうというワクワク感があったり,彼の心を揺さぶるような「これ!」という手ごたえがあったからこそ,キャッチが「できる」とは関係ないところで,終始笑顔のまま,自ら遊びを展開していったんだと思います。

 

【「肉」に手ごたえを感じる】
 勉強についても同じことが言えます。つむぎに通う小学生の男の子のエピソードを取り上げます。その子は文字を書くのが好きで,勉強の時間は文字をたくさん書いています。ある日,「一,二,三」と漢数字を書き始めました。私は「おお~,学校で漢字を習ったんだな~」と思いながら見ていました。
 すると彼が書いたのは,「・・・六,七,肉,八,九,十」でした。ん?・・・肉が入っとる!?そして彼は「おかしくな~い?(笑)」と言ってにやけました。おかしいのはわかるけど・・・どこがおかしいのか高尚すぎてわからない・・・。むしろいろいろな疑問が湧いてくるけどなあ。そもそもなぜ肉?なぜ七と八の間なの?私にはよくわからないけれど,そこには確かにおかしみが溢れています。このように考えていると,「ちゃんと正しく順番に漢字を書きなさい!」という気持ちはどこかにいってしまい,ただただ彼のユニークすぎる世界に引き込まれます。もちろん彼が正しく漢字を書ける上で,あえて肉を書いたんだと思いますし,正しく漢字を書く練習が全く必要ないとも言えません。ただそれでも,彼が「肉」に「手ごたえ」を感じた様子からは,漢字を書くことができるか,正しい順番で書くことができるかということよりも,言葉を柔軟に,かつ笑いを誘うように使いこなす彼の学びに,大きな意味を見出すことができます。
 

 【「できる」とほどよくつきあうには?】
「「できる」とほどよくつきあう」ということに対して,上の2つのエピソードが重要な示唆を与えてくれたと思います。1つ目に,「できる―できない」という評価軸だけでなく,子どもが手ごたえを感じているかという評価軸も持っておくことです。この2つの評価軸は,お互いに全く別で考えられるからこそ,「できる―できない」を緩ませることができます。
 2つ目に,「できる」は手ごたえが伴って意味をもつということです。「できる―できない」という評価軸,手ごたえという評価軸は,別に考えられると言いましたが,一緒に考えられるようにも思います。子どもが何かできたことに対して,「よし!」と手ごたえを感じられるからこそ,「できた」には意味があるように思います。逆に何かができたとしても,子どもは手ごたえを感じられず,周りが「できたね!」と喜んでも,子どもがしっくりくるのは難しいです。子どもがしっくりきていないのに,「できたね」の評価を与えすぎると,生き生きとした子どもの経験が積みあがってこないように思います。「できる」と「手ごたえ」は,お互いに遠ざかりつつ,近寄っていくことで,私達の「できる」の見方に,ほどよさが生まれるのだと感じました。